辿る標
舞う葉も空も、木々の隙間を潜り抜けた風も、全てが赤に澄んだ暮れのこと。
転がるビニール袋を追いかけていた僕は、気がつけば迷子になっていた。
元から僕に居場所なんてありはしない。
しかし此処は他の場所と違って、幾ら見渡しても人間が目に入ることはなかった。
赤く光る中から雁の群れがやってきて、僕に向かって低い声で言った。
「見ない顔だなそこの猫。悪いことは言わないから帰った方がいいぞ、夜は。」
雁の群れが進む先には、何よりも黒くて冷たい森が広がっていた。案外僕から距離はない。
僕はビビリで、こういう時の手汗と震えた脚はいつもなかなか止まらない。なのに、今は歩く脚も止められない。
恐怖心が生み出す風の冷たさの中に、不思議なくらいの好奇心が見え隠れしていることを知っているのは僕だけだった。
少し進むと気がついた。森の手前に立つ女性。
薄茶色の木目と洒落た文字。蔦が巻く足すら綺麗で、顔に書かれた「立ち入り禁止」の文字でさえ本来の緊張感を持っていないような気がした。
僕は思わず独り言のように声をかけた。
「森の前で、君は怖くないのかい?僕なら怖くてたまらないよ。」
返事が返ってくることなんて想定していなかったために、彼女の声は小さくも恐ろしく響いた。
「ええ、怖いわ。だから私はこの立ち入り禁止を掲げながら、みんなが怖くないように立っていることしかできないの。」
驚いた僕は動揺しながらも短い会話をしてそこから離れた。
数日経った後も、彼女のその一言が忘れられずにいた僕は、花を持って彼女の元へ向かった。
昼間に見た森はそこまで黒くはなかったのでホッとした。
また来たのねと互いに挨拶をした後に、彼女は声色を変えて言った。
「どうしたのその花。」
「君に持ってきたんだよ。」
「この子達は根も声も奪われたわ。綺麗なのは寝顔だけよ。」
そう言って悲しそうに透明な子守唄を歌い始めたようだが、その歌は僕には聴こえなかった。
僕は何も言えずに立ち竦んだが、短い沈黙の末にある疑問が生じた。
彼女の自然に対する慈愛はとても大きく、
しかし花に対する彼女のそれは、森を怖がる者が持つものとしてあまりに不自然だと思えたのだった。
僕は彼女の子守唄を遮って訊いた。
「ねえ、君が森を怖がるのはどうして?」
「いつ私が"みんな"を怖がったの?」
首を傾げる彼女を前に、初めて彼女と話した時と同じ驚きが僕に走った。
根本的に間違っていたと気づいた時に僕は「あっ」となって、多分眼は丸くなっていたと思う。
木目がその全てを証明していた。
辿ってみれば、そうか君も。
「私はみんなが怖くないように立っていることしかできないの。」
怖さを知っている彼女の強みだった。
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