アルデバラン

「女の子はピンク色をしたダウンジャケットのチャックを締め切らないまま、カーナビが強く光る車の中で揺られながら寝ていました。

 

「ついたぞ。」

 

お父さんの一言で起きた女の子は目を擦りながら窓から外を見ました。丘の上でした。

 

普段と違い、光があるのは見上げるところ。

 

女の子は天体観測が好きなお父さんに誘われて、流れ星を見るために夜中にこの丘まで来たのでした。

 

「綺麗だろ。ほら、見えるか?あの一番光る星が北極星だぞ。」

 

「知ってるよ!そんなことより流れ星はー?」

 

女の子は流れ星を急いで訊きました。

 

「念のため早めに来たからな、多分もう少しだ。車で待っていよう。」

 

女の子は持ってきたぬいぐるみを窓の外の空に向けてやり、手を振らせました。

 

突如光の量を増す夜空を見つけ、女の子は驚きの声をあげます。

 

「お父さん流れ星!」

 

急いで開けたドアはまるで羽毛の暖かい布団のようで、着地した地面からは低反発枕に似たものを感じました。

 

おかしいと感じた頃にはもう遅く、女の子は待っていた流れ星を目掛けて宙を舞っていました。

 

「お父さん!私飛んでるよー!」

 

ダウンジャケットの若干空いたチャックから入る風が女の子の背中をパタパタと動かして、持っていたぬいぐるみはいつの間にやらひとりでに女の子の顔のすぐ横を飛んでいます。

 

女の子は可愛らしく笑って、流れ星を誰よりも近くで見たのでした。

 

お父さんは怖くて声も出ませんでしたが、女の子の笑うその姿は、どの星よりも輝いて見えました。

 

 

p.s. 5月が待ち遠しいのは私だけでしょうか。」

 

 

この手紙は私の妻が書いたものだった。

 

冬至の日に封を開けてねと言われて今日まで大切にしていたのだが、私は遂に今日、満点の星空の下で手紙が濡れてしまうことを恐れながら読んだ。

 

手紙の最後に添えられた一言を見て何度も込み上げてくるものを感じた。

 

その月を本来は違う感情で迎えたかった。

 

その月に私は彼女の最も輝く目を、最大の幸福を持ってこの目に映すはずだったのに。

 

手紙が濡れてしまわぬようにそっと封筒に戻して、寒空を仰いだ。

 

あまりにぼやけたこの目では、見上げた星座も見れやしないだろうに。

 

最大の幸福を持ってこの目に映すはずだったのに。彼女の最も輝く目を。

 

 

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雪降る思考とその回路

朝の天気予報は曇りを告げたが、生憎降る水は雪とともに私の傘を濡らし続ける。

 

昔よく遊んだあのゲームの優しい音楽を思い出しながら、私はその音色を聞き、匂いを嗅いだ。

 

離れた所にいる貴方は、いつ見ても斜め上を遠い目で見つめていた。

 

俯きつつ視線を無理やり貴方から剥がして、頻りに自分の靴紐を気にしてみたりしたが

 

両手を口元に丸く当てた貴方は一つ静寂を吐いた。

 

それは貴方自身の手に温もりをもたらしたのちに白く宙を漂った。

 

頭の中で鈴の音が止んだのは、恐らくみぞれが完全な雪になったからであって決して貴方と目があったからではない。私はそう思って視線をまた靴紐へ向けた。

 

いつの間にか解けた靴紐がそこにあったが、徐々に近づく脚音は私に何の余地も与えないまま遂には止まった。

 

再び目があったときには既に遅く、私は焦ったし雪の冷たさ以上にヒヤッとした。

 

素早く差し出された貴方の手には、まだ袋に入ったままのホッカイロが若干の皺とともに乗せられていた。

 

戸惑ったが不器用な貴方が無理にそれを握らせるものだから、私は思わず目を見開いた。

 

私の脳内に感謝の言葉が浮かぶその前に、貴方はコートの襟に口元を隠しながら去ってしまった。何も言えずにいた。

 

私は世界ごと黒く点滅させながら貴方の背中をただ見つめる。

 

何度瞬きをしたことか想像もできないのは、見開いた目が冷気で乾燥したからであって決してそういうわけじゃない。

 

帰宅した私は頭を空っぽにしようと思い窓と向かい合った。

 

今は辛うじて晴れと言えるような空模様。

 

私にはまだ雪が降っているように見えた。

 

部屋の空調は整っているし、テーブルの上には食べかけのフルーツですらある。

 

一つも苦労や悲しみはない。

 

但しそれらとこの悩みは全くの別物であり、それがまた窓の外にみぞれを降らせた。

 

それからフルーツの乗ったお皿をラップで覆って、伽藍堂の冷蔵庫に入れる。

 

壊しかけのジグゾーパズルを作り始めようとした時にようやく気がついた。

 

私はこの間(かん)、歯ブラシを握りしめて奥歯を磨き続けていた。

 

口を濯いだために再び手は冷えたが、目線の先にはホッカイロ。

 

私はこの寒(かん)、ホッカイロを握りしめて濡れた街路が乾くのを待ち続ける。

 

 

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辿る標

 

 

舞う葉も空も、木々の隙間を潜り抜けた風も、全てが赤に澄んだ暮れのこと。

 

転がるビニール袋を追いかけていた僕は、気がつけば迷子になっていた。

 

元から僕に居場所なんてありはしない。

しかし此処は他の場所と違って、幾ら見渡しても人間が目に入ることはなかった。

 

赤く光る中から雁の群れがやってきて、僕に向かって低い声で言った。

 

「見ない顔だなそこの猫。悪いことは言わないから帰った方がいいぞ、夜は。」

 

雁の群れが進む先には、何よりも黒くて冷たい森が広がっていた。案外僕から距離はない。

 

僕はビビリで、こういう時の手汗と震えた脚はいつもなかなか止まらない。なのに、今は歩く脚も止められない。

 

恐怖心が生み出す風の冷たさの中に、不思議なくらいの好奇心が見え隠れしていることを知っているのは僕だけだった。

 

少し進むと気がついた。森の手前に立つ女性。

 

薄茶色の木目と洒落た文字。蔦が巻く足すら綺麗で、顔に書かれた「立ち入り禁止」の文字でさえ本来の緊張感を持っていないような気がした。

 

僕は思わず独り言のように声をかけた。

 

「森の前で、君は怖くないのかい?僕なら怖くてたまらないよ。」

 

返事が返ってくることなんて想定していなかったために、彼女の声は小さくも恐ろしく響いた。

 

「ええ、怖いわ。だから私はこの立ち入り禁止を掲げながら、みんなが怖くないように立っていることしかできないの。」

 

驚いた僕は動揺しながらも短い会話をしてそこから離れた。

 

数日経った後も、彼女のその一言が忘れられずにいた僕は、花を持って彼女の元へ向かった。

 

昼間に見た森はそこまで黒くはなかったのでホッとした。

 

また来たのねと互いに挨拶をした後に、彼女は声色を変えて言った。

 

「どうしたのその花。」

 

「君に持ってきたんだよ。」

 

「この子達は根も声も奪われたわ。綺麗なのは寝顔だけよ。」

 

そう言って悲しそうに透明な子守唄を歌い始めたようだが、その歌は僕には聴こえなかった。

 

僕は何も言えずに立ち竦んだが、短い沈黙の末にある疑問が生じた。

 

彼女の自然に対する慈愛はとても大きく、

しかし花に対する彼女のそれは、森を怖がる者が持つものとしてあまりに不自然だと思えたのだった。

 

僕は彼女の子守唄を遮って訊いた。

 

「ねえ、君が森を怖がるのはどうして?」

 

「いつ私が"みんな"を怖がったの?」

 

首を傾げる彼女を前に、初めて彼女と話した時と同じ驚きが僕に走った。

 

根本的に間違っていたと気づいた時に僕は「あっ」となって、多分眼は丸くなっていたと思う。

 

木目がその全てを証明していた。

 

辿ってみれば、そうか君も。

 

「私はみんなが怖くないように立っていることしかできないの。」

 

怖さを知っている彼女の強みだった。

 

 

 

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幽閉画家とその友達

 

 

そこは白で囲まれた世界。

 

彼女は出口すらないその部屋から、一歩も出ることができません。

 

気がつけば幽閉されていた彼女は外を知らないのです。知る術もない。

 

全てが白でしかないその世界。

 

ひとつの大きな額縁を除いては、彼女の目に入るものは何もありませんでした。

 

彼女は目の前の大きな額縁に、自ら想像する外の世界を描き始めました。

 

夢中に描く彼女のその姿は、数日経っても変わることはありません。

 

描き終えようとした頃に気づいたのです。額縁からはみ出した線は、いつしか生命とも呼ぶべきものを作り出し、いくつもの感情を産みました。

 

彼女は再び描きました。

 

もう一人ではなかったのです。

 

彼女は、額縁を内に孕んだ、キャンバスとも言うべきその部屋を

 

〝外〟と名付けました。

 

彼女の悲しみを払うのは、きっと彼らに違いありません。

 

軈て彼女は仰ぎ見て気がついたのです。

 

まだ塗っていないところがある。

 

大きな悲しみを知る彼女は、一番優しい色で、しかもとても優しい筆遣いで塗りました。

 

青色に塗られた天井は、若干の塗り残しを寧ろ良いものとし、寒色でありながらも最大の暖かさを持つ存在となりました。

 

そこは優しさ、或いは賑わいで囲まれた世界。

 

彼女は出口すらないその部屋から、一歩も出る気はありません。

 

 

 

 

眞惧カップ

寝っ転がったラジカセが言う。

 

「お早う御座います。852日、火曜日です。

天気は曇り。最低気温30℃ 最高気温80℃と、非常に過ごしやすい一日となっています。

洗濯物は干しっぱなしで大丈夫そうです。口角を緩めるのには良い日和でしょう。」

 

私はロッキングチェアに深く腰掛けたまま、薄ぼんやりとそいつを聞いてため息をついた。

 

へぇ、過ごしやすい一日ねぇ。

 

すぐそばにあったマグカップを、利き手でない方の手で取って口元へ運んだ。

 

久しぶりに飲む水は美味い。

 

しかし後になって違和感を感じたのでもう一度マグカップを口へ運んだ。

 

どうやら私はマグカップの中身に気づかないまま喉の渇きを潤したようだった。

 

空だったのである。

 

驚きよりも先に可笑しさが込み上げてきて、思わず腹を抱えて笑い転げた。

 

若干開いたカーテンの側で寝ていた妻はというと、まだ気持ちよさそうに寝ている。

 

何故だか妙に気分のいい私は、寝っ転がったラジカセを起こして雑にそのチャンネルを変えた。

 

流れるは70年代の音楽。

 

少し口ずさんでから、利き手でない方の手で妻の肩を軽く譲った。

 

「おうい、そろそろ起きないかい?」

 

軽く返事はあったが恐らくそれは無意識のもので、まだ妻は夢の世界にいるようだ。

 

「冷蔵庫のロールケーキ、食べちゃうぞ。」

 

妻はそんな私の声に、機嫌を悪くしながらも漸く目を覚ました。

 

「朝から騒がしいわね。ほら起きたからとっておいてちょうだい。」

 

妻を見て私はまた笑った。

 

今度のは腹を抱えたりなどせずに、そこそこ温もりのある笑みだったと思う。

 

「ねえ。」

 

「ん?」

 

「朝ごはん、久しぶりに一緒に食べたい。」

 

妻からの提案だった。

 

私は何だか照れ臭くなって、またさっきのマグカップに手を伸ばした。

 

マグカップの中身が空なのは分かっていた。

 

だから余計に焦った。

 

思わず利き手でない方の手で口をさすって、持ったままのマグカップに目をやった。

 

マグカップの中身は注がれた。

 

マグカップを掴む時、照れ隠しに必死だった私は取っ手を掴む暇すら与えないまま上から持ち上げたのだった。

 

私は耐性があまり無かったため変な笑いが込み上げてきて、どうすることもできず只ひたすらに笑った。

 

腹を抱えこそしなかったが、実に気味の悪い笑みだったと思う。

 

下がることを知らずに上がり続ける私の口角。

 

これといった痛みは感じないままでいた。

朝夜

目が覚めると私は既にベッドの上に座っていた。


昨晩は酷く荒れた空模様で、多分、疲れ果てた私は横になることなく眠りについた。


目の前に飾られたソープフラワーが何時に無く輝いて見えたのは言うまでも無い。


気怠さの中に心地良さを感じる程であったが、視線を横にずらせば並ぶフィギュア達。


ソープフラワーとは真逆に、彼らは厭味ったらしく笑っているように見えた。


「愉快だな。」


彼らは言った。

ああ、そうか。それならソープフラワーだけがいい。


フィギュアを目のつかない場所に遠のけた。


それから朝食を錠剤や水銀と共に適当に済ませた私は、またソープフラワーへ向かった。


そこに一切の恐怖心が無かったとは言えない。

しかし、ソープフラワーはその殆どを緩和させてくれる唯一無二の存在だったと思う。


カーテンも開けずに再び私は横になった。


不安を残しながらソープフラワーを抱いて寝ようとさえ思った私を殴りたい。


睡眠は私をどこまでも拒む。


阿房臭いくらいに。

舞踏会

ここに太陽は無く空すら無い。

ここに光は無く影すら無い。

無い。


少女は今日も大好きな鼻歌を歌いながら、軽快な足取りでそんな砂場を歩き回った。


こちらに助けを求めているような、一枚の大きな写真を見つけた。

「あらあら砂塗れじゃない。」

少女が砂を払うとそこに写されていたのは爽やかな男性。いつの写真だろうか、中世ヨーロッパの貴族の様な服を着て笑っている。

「一体何方かしら。立派な紳士ね惚れてしまうわ。」

写真に乗った残りの砂を一生懸命に払うとまた歩き出した。


今度は大きなボタンと目が合った。

「あらどうも。今日はいろんな方と出会うわね。貴方も此処へ忘れられたの?一緒に踊りましょ。」

大好きな鼻歌は少し大きく膨らんで、少女はボタンを抱えて踊り出した。


少女は水も食料も要らず、光も影も、太陽も空さえも必要としなかった。


それは想像以上に長い間続いた。

軈て沢山の踊り人が集まり、少女は舞踏会を開くのであった。


箪笥の中、ダンスは続いた。

引き出されることもなしに。永遠に。