眞惧カップ

寝っ転がったラジカセが言う。

 

「お早う御座います。852日、火曜日です。

天気は曇り。最低気温30℃ 最高気温80℃と、非常に過ごしやすい一日となっています。

洗濯物は干しっぱなしで大丈夫そうです。口角を緩めるのには良い日和でしょう。」

 

私はロッキングチェアに深く腰掛けたまま、薄ぼんやりとそいつを聞いてため息をついた。

 

へぇ、過ごしやすい一日ねぇ。

 

すぐそばにあったマグカップを、利き手でない方の手で取って口元へ運んだ。

 

久しぶりに飲む水は美味い。

 

しかし後になって違和感を感じたのでもう一度マグカップを口へ運んだ。

 

どうやら私はマグカップの中身に気づかないまま喉の渇きを潤したようだった。

 

空だったのである。

 

驚きよりも先に可笑しさが込み上げてきて、思わず腹を抱えて笑い転げた。

 

若干開いたカーテンの側で寝ていた妻はというと、まだ気持ちよさそうに寝ている。

 

何故だか妙に気分のいい私は、寝っ転がったラジカセを起こして雑にそのチャンネルを変えた。

 

流れるは70年代の音楽。

 

少し口ずさんでから、利き手でない方の手で妻の肩を軽く譲った。

 

「おうい、そろそろ起きないかい?」

 

軽く返事はあったが恐らくそれは無意識のもので、まだ妻は夢の世界にいるようだ。

 

「冷蔵庫のロールケーキ、食べちゃうぞ。」

 

妻はそんな私の声に、機嫌を悪くしながらも漸く目を覚ました。

 

「朝から騒がしいわね。ほら起きたからとっておいてちょうだい。」

 

妻を見て私はまた笑った。

 

今度のは腹を抱えたりなどせずに、そこそこ温もりのある笑みだったと思う。

 

「ねえ。」

 

「ん?」

 

「朝ごはん、久しぶりに一緒に食べたい。」

 

妻からの提案だった。

 

私は何だか照れ臭くなって、またさっきのマグカップに手を伸ばした。

 

マグカップの中身が空なのは分かっていた。

 

だから余計に焦った。

 

思わず利き手でない方の手で口をさすって、持ったままのマグカップに目をやった。

 

マグカップの中身は注がれた。

 

マグカップを掴む時、照れ隠しに必死だった私は取っ手を掴む暇すら与えないまま上から持ち上げたのだった。

 

私は耐性があまり無かったため変な笑いが込み上げてきて、どうすることもできず只ひたすらに笑った。

 

腹を抱えこそしなかったが、実に気味の悪い笑みだったと思う。

 

下がることを知らずに上がり続ける私の口角。

 

これといった痛みは感じないままでいた。