アキレ森にて秋を知る
[0.落ちる]
ある日、霧の立ち込める森の中、1人の少年が迷い込んだ。
冷たい空気をかき分けながら、せっかちな足取りで落ち葉を踏みつけ、更なる深部へと進む。
気がつくと開けた広場のような場所に到達していた。
中心に大樹が1本。
たんぽぽの綿毛が宙を浮かび、嫌に静かな様子で体当たりしてくる。
少年はそれをわざとシカトし樹へと向かう。
しかし、突然視界が暗くなった。
少年は森に〝落ちた〟のだった。
[1.笑い声]
「ーーまぁ、大丈夫かしら!大変なことねどうしましょ。」
少年は甲高い女性の声で目を覚ました。
辺りを見回せば紅が綺麗な森の中。
何が何だかわからなかった。
「あらあらあなた、ご無事なの?お客さんなんて久しぶりね。良いことではないわね。」
フフ夫人は少年に尋ねた。
「あなたお名前はなんというの?」
ちなみにフフ夫人というのはこの少年を起こした女性のことだが、少年が何故彼女の名前を知っているのかは本人にもわからなかった。
少年は何もかもわからなかった。
紅葉で染まった葉が、余計にボーッとさせる。
「記憶喪失ね。珍しくないわ!でも安心して。
ダーリンに診て貰えば良くなるわ!ホホホ!ついてきて頂戴。」
フフ夫人は鼻歌を歌いながら歩き出した。
少年はひとまずついていくことにした。
森の中は、明るい陽が差し込み、絶え間なく葉が舞っている。
それも赤や橙、黄色。
しばらくすると薄汚れた家が見えてきた。
「さ、着きましたわ!ワタクシたちの自慢のお城ですの。」
どう見てもただの家だったがフフ夫人は自信満々に言った。
少年は背中を押され、家へと入った。
[2.愉快]
中には奇妙な帽子を浅く被った男性がいた。
「おや、久しぶりのお客さんかい?
それとも晩飯か?…ハハハ、冗談冗談!さて、どうしたんだい?」
ジョー男爵は帽子の鍔を軽く上げてそう言った。
ちなみにジョー男爵というのはこの変な男性のことだが、少年が何故彼の名前を知っているのかは本人にもわからなかった。
フフ夫人はすぐにジョー男爵に説明を始めた。
「そうか、よし少年!そこのソファに横になれ!何、怖いことはせんよ!ハハハ!」
少年はゆっくりと古びたソファに体を沈めた。
ジョー男爵は何やら線で繋がれた謎の鉄の塊を2つ手に取り、自分と少年の右目に取り付けた。
「これは重症だな…。…ハハハ、冗談さ!心配はない!これならすぐに戻るだろう。」
ジョー男爵はそういうと冷蔵庫横の壁に張り付けられていたどこかの地図を勢いよくぶん取り、少年に渡した。
よく見れば、2つの城の絵だけが描かれており、それが1本線で繋がれているだけの紙だった。
少年は、これを果たして地図と呼んでいいのかと意味もなく考え込んだ。
ジョー男爵は少年に説明を始めた。
何やら森にはもう一つの城があり、そこに行かなければならないらしい。
実際そこが城なのか、はたまたこの家のように古い家なのかはわからないが、少年はジョー男爵とフフ夫人の〝城〟を出発することにした。
日が沈みかけている。
瞳に映るは赤一色。
少年はぼーっとしながら歩みを進めた。
[3.飢えと赤]
腹が減った。
目が覚めてからは軽く10時間ほど経っていたと思う。
それから何も食べていない。
するとそこへシカが現れた。
普通の模様ではあるものの、少年はそいつに違和感を感じた。
ああそうか、こいつは俺たちと同じ2速歩行なのか。
ちょうど気づいたとき、そいつは少年に話しかけた。
「お前、腹減ってんだろ。ほら食えよ。」
意味がわからなかった。
展開に追いつけず硬直していると、冷たい北風が体を包み込むのがはっきりとわかった。
瞬く間に鹿は消え、そいつの形をした真っ赤なさくらんぼの乗っかったケーキになってしまった。
少年は夢中でそれを食べた。
気づけば当たりは暗い。
しかし夜の紅葉もなかなか映えるものだ。
少年は再び進んだ。
ケーキを食べたせいかすぐに睡魔が襲ってきた。
少年はそれでも歩いたが、再び北風が吹いた。
それは急にやってきた。
途端に、意識を失った。
自分が倒れたのがわかるほど、綺麗に意識を失った。
[4.普通じゃない]
目が覚めた。
辺りは明るい。
すぐ目の前に城が有ることに気がついた。
状況の整理に8秒程かかり、漸く驚いた。
明らかに昨晩城は見えもしなかった筈だ。
全開の門や扉、黒ずんだ白の外壁が少年を不安にさせる。
その周囲で紅葉たちは少年を励まし続けた。
中は薄暗い。
少年が城に入るや否や、ポツポツと雨が降り出した。
奥から女性の声がする。
今度は甲高くない。
「…どなた?声も出さずに入ってくるなんて図々しいったらありゃしない。そこの床を汚したのもあなた?おかしいんじゃありません?」
辺りを見回すとそこにはアイスクリームが落ちていた。
明らかに少年が落としたものではない。
有りもしない罪を叱られ少し腹が立った。
だが、それが逆に不安を和らげた。
薄暗く見づらい奥の方から、どこか冷たい赤色のドレスを見に纏った女性が出てきた。
辺りの空気はその女性からゆっくりと逃げた。
埃を被っていたカーテンが、紙吹雪を撒き散らすように靡く。
静かに喜んでいるような、怒っているような。
なんとも言い難い空気だ。
女性はその空気たちを少し吸い込んだ。
辺りは雨粒が滴る音のみであったため、その音が鮮明に聞こえた。
[5.音]
「お客さんなんて面倒なだけだわ…。あなた名はなんと言うの?」
少年は問われたが正直なところ何もわからない。しばらく答えないでいると、反射で体が跳ねた。
リー夫人が怒鳴り出したのだ。
ちなみにリー夫人というのはこの怒りん坊の女性のことだが、少年が何故彼女の名前を知っているのかは本人にもわからなかった。
「名前くらい言いなさいって言ってるでしょうが!本当に図々しいわね!」
これには少年もカチンと来て、怒鳴り返そうとしたが声が出ない。
そういえば一度も声を出そうとしなかった。
自分の声がどんな音かすらわからなかった。
声を出せないままあたふたしているとリー夫は何か思いついた様な顔をし、すぐ後ろにあった階段を駆け上っていった。
階段たちはキシキシと、笑っているような、どこか泣いているような、なんとも言えない声を響かせていた。
リー夫人から呼ばれるまで、少年は20分ほどそこで立ちつくした。
上の階から降りてきたリー夫人が少年に言う。
「早く上がっていきなさい!何してるの!」
全く。図々しいと言ってみたり早く来いと言ってみたり。
ここまで酷いものなのか。
リー夫人はそのまま走って城から出て行ってしまった。
ドレスを身に纏っているというのに雨粒を一つも気にしていなかった。
おかしいと思いつつも、少年は階段が泣いてしまわぬようにゆっくりと上った。
上るとそこは一階や外壁とは比べものにならない程綺麗だった。
ここだけ手入れされているようだ。
それが不思議でならなかったが、上り切った頃にはそんなことなど気にもならなかった。
[6.タイトル無し]
そこには立派な身なりで椅子に座る男性がいた。
椅子も立派で、手摺に頬杖をつき、窓から空の涙が紅葉を打ち付けている様子をただ眺めている。
男性は恐らくというか絶対、王様なのだろう。
明らかに謎のオーラを周囲に巻き付けている。
少年は余りの急展開に驚き、脚を動かすことができなくなってしまった。
少しして男性は体勢を崩さずに口だけを開いた。
「来てくれ。私は王だが、そう呼ばれなければならないだけで、別に大した野郎でも何でも何でもないさ。」
その声色は〝藍色〟といったところだろうか。
どんより曇ったものだ。
少年は動くようになった脚を、恐る恐る王に近づけた。
[7.哀しみ]
まじまじと見た王の顔は、眉間の皺が濃く、どの程度の悲しみがあったのかは想像もつかない程哀れな顔だった。
歳は30前半くらいだろうか。まだ若い。
「さて、話そう。この森のこと。私のこと。」
王は少年に多くを話し始めた。
その昔ここに国があったこと。
国民がたくさんいたこと。
その頃は王もリー夫人も、毎日国民と笑って過ごしていたこと。
愛で溢れていたこと。
呪いで壊滅してしまったこと。
4人だけ生き残ってしまったこと。
酷く落ち込んだこと。
哀しみに苦しんで来たこと。
王は終始哀しい表情だった。
話を終えると王は、太ももに手をつき身を乗り出して少年に行った。
「話を聞いている君を見て、君がどんな人間かわかったよ。君みたいな人間は初めてかもしれない。」
少年は王のその目に冷や汗をかいた。
自分は悪い方の人間なのかもしれない。
怖かった。
王は続けて言った。
「君は淡い優しい色をしている。」
理解できなかったが、それは良いものな気がした。
直後に数人が階段を上る脚音が聞こえた。
リー夫人がフフ夫人、ジョー男爵を呼んで来たようだ。
こんなに短時間で往復できる距離ではなく、不思議で仕方がなかった。
[8.送る]
「少年、やっぱり君はそうであったか!
ハハハ!」
さっぱりわからない。
が、何か認められたのだろう。
フフ夫人とジョー男爵は満面の笑みを浮かべている。
全員が上の階に集合したところで王は少年に問う。
「君、記憶戻したいかい?」
頷いた。すぐに頷いた。そりゃそうだろう。
「それはそうですわよね!ホホホ!」
「記憶は、残念だが戻らない…ハハハ!冗談さ!」
「全く、あのアイスは誰が片付けるのよ…」
リー夫人は王様に視線をやった。
ははー、なるほど。
王は漸く体勢を楽にし、少年に言った。
「わかった。じゃあヒントを上げてから帰すとしようか。」
ヒントと聞いて少年は内心ワクワクした。
「私だけまだ名乗っていなかったね。
私の名前はアイク。君の名前は…?」
それは確かに聞き覚えがある。
これ以上ないくらいに落ち着く。
思い出せない。
途端に視界が悪くなる。
頭に重い何かが乗っているのかと思うほど頭が痛くなった。
いや、おそらく実際に上から何らかの力がかかっている。
少年は見る見るうちに床にのめり込んだ。
気づけば天を舞った。
アイク王の声がする。
「私になるなよ。君の周りには何がある?
苦痛に思える時もそれは…」
紅葉が綺麗だ。
[9.赤]
ーー
少年は啜り泣く女性の声で目を覚ました。
病院の天井がまず目に入った。
次に、隣に泣く女の子。
その子は少年の手を握り、目を見開いて問う。
「私の名前、わかる?」
「……ルージュ」
知らない名前が自然と口から出てきた。
その瞬間に全てを思い出した。
横で泣いていたルージュという女性は少年の恋人だった。
ルージュは口角を上げたまま頬っぺたをプクッと膨らませた。
そして涙袋を輝かせ、フフフと笑って冗談を言った。
「もう、寝坊助!どんだけ寝るのが好きなのよ!」
暖かい布に触れるかの様な、フワッとしたビンタを食らった。
理不尽に叩かれた少年は悲しんだふりをしたつもりだったが、ちっとも悲しそうに見えなかっただろう。
あの王の声を思い出した。
あの王の名前を思い出した。
それは苦痛に塗れた幸せのカタチなのかもしれない。
そう思った。
少年はすぐに確かめた。
確かめずにはいられなかった。
「俺の名前は……